2017年3月10日金曜日

兼六園の真鯉と緋鯉、そして恋のハートマーク鯉

兼六園の真鯉と緋鯉、そして恋のハートマーク鯉


日本三名園の一つに数えられる「兼六園(けんろくえん)」には、瓢池(ひさごいけ)や霞ヶ池(かすみがいけ)などの観光名所となっている池があります。

これらの池には、お約束通りに鯉が泳いでいます。

これは、池に泳ぐコイを意匠したアンティーク帯です。
池に泳ぐコイを意匠したアンティーク帯池に泳ぐコイを意匠したアンティーク帯
次に「鯉の滝登り」を描いた男子の七五三用の着物です。
鯉の滝登りを描いた男子の七五三用の着物鯉の滝登りを描いた男子の七五三用の着物
このコイは、真鯉(まごい)で黒い色をしています。


兼六園には、高さ6.6メートル・幅1.6メートルで、水量豊富・滝音も大きい雄大な滝「翠滝(みどりたき)」があり、瓢池に注いでいます。

瓢池を泳ぐ真鯉と翠滝を眺めていると、この「鯉の滝登り」を連想することができます。


兼六園の鯉の多くは、真鯉で占められています。

また、それらより少ない割合で、緋鯉(ひごい)がいます。

ちなみに真鯉とは黒い色のコイで、緋鯉とは赤黄色のコイです。

そして、少数ですが錦鯉もいるそうです。


兼六園の池に真鯉が多い理由は、兼六園の歴史にあります。

兼六園の築庭の始まりは、1676年に加賀藩5代藩主・前田綱紀(まえだつなのり)が、自己の別荘を建てその周りを庭園化したことだと言われています。

この庭は、一般的に「連池庭(れんちてい)」と呼ばれています。

しかし、歴代藩主に深く愛された連池庭でしたが、1759年の宝暦の大火でその一部が消失してしまいました。

その後、11代藩主・前田治脩(まえだはるなが)が、1774年に翠滝と夕顔亭(ゆうがおてい)、1776年に内橋亭(うちはしてい)を造営し、蓮池庭を再整備しました。

また、12代藩主・前田斉広(まえだなりなが)が、1822年に自己の隠居所「竹沢御殿(たけざわごてん)」造営し「兼六園」と命名されました。

そして、13代藩主・前田斉泰(まえだなりやす)は、霞ヶ池を広げたり姿の良い木を植えるなどして、兼六園を一大庭園に作りあげました。

さらに1863年には、母・真龍院(しんりゅういん)の隠居所として「巽御殿(たつみごてん)」・現在の「成巽閣(せいそんかく)」を建てて、ほぼ今の庭の形になりました。

そしてこの間、兼六園の池には、真鯉しかいなかったと伝えられているそうです。

それ以来、これが兼六園独自の伝統と考えられるようになったようです。


しかし、いつの間にか真鯉の中に緋鯉が、混ざるようになりました。

おそらく誰かが、黒色鯉ばかりじゃ殺風景だと思い、赤色鯉を放流したのだと思います。

ちなみにその当時の兼六園は、24時間出入り自由の無料開放でした。

兼六園側は、緋鯉の放流が名園の伝統を損なうものだと考えたのか、その緋鯉を捕えて近くのお堀などに放すこととしました。

しかし、その努力の甲斐もなく緋鯉は、増える一方でした。

そしてちょうどその頃、兼六園内の「徽軫灯籠(ことじとうろう)」が、深夜に金づち状のもので破壊されるという、悲しむべき事が起こりました。

これらを憂慮したのか、兼六園では開園時間の設定や入園料が、微収されることになりました。

それは、1976年(昭和51年)のことで、今から40年以上も前のお話です。

その頃からか、真鯉や緋鯉がいっしょにいるのも兼六園の風情だという考え方が深まったようで、現在に至っています。


このような歴史の流れの中で、瓢池には「恋のキューピット」がいるという話題が、広まったことがあります。

それは、体長約30センチメートル程の純白色の鯉で、何と鼻先にピンクのハートマークの模様があります。

この鯉は、恋愛成就にご利益があるかもしれないと、当時写真に収める観光客が、後を絶たないこととなりました。

この話題は、2012年頃から2013年頃、特に盛り上がりました。

しかし、あれから4~5年位経ちますので、この愛を呼ぶ鯉が今でも健在かは、定かではありません。

ただし鯉の寿命は、20年~30年あるいは50年・70年・100年とも言われるそうで、この恋のキューピットにあなたも出会えるかもしれません。

あんたもいっぺん金沢に来てみまっし~♪♪

今回の担当は、今ので十分幸せな達じいでした。

あんやと(*´▽`*)。







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